内外地図では、まちあるきイベント「地図屋と歩く! 千代田のまち」を不定期開催しています。
江戸初期の千代田の成り立ちから、現代に至るまでの歴史を、地図屋ならではの視点でご紹介します。
まちあるきイベントでは、たとえば、こんなお話をしています。
▼ 御茶ノ水橋「神田川の役割」
かつて、このあたりは神田山と呼ばれる、草木に覆われた丘陵でした。神田山は、江戸城本丸を眼下に望む攻め手側にとっての絶好地、ここからの攻撃力を低下させるためにはどうするのか、江戸に幕府を開いた徳川家の悩みでした。
そこで江戸初期当時、このあたりから南東方向(日本橋方面)に流れていた神田川を開墾、流路を真東に変え、今のJR御茶ノ水駅付近で神田山を真二つに分断、攻め手有利の要塞としての価値の低下を図ったのでした。

▼ 日大歯学部「池田坂(別名:唐犬坂)」
駿河台の御茶ノ水仲通り、日大歯学部の脇にある坂を池田坂と言います。名前の由来は、この辺りに池田姓の旗本が屋敷を構えていたためと言われています。また、この旗本が洋犬を飼い、屋敷内で闘犬を行なっていたことから、別名唐犬坂とも言われていました。
江戸時代、神田駿河台一帯には、旗本(徳川将軍家直属の家臣団の)屋敷が多く立ち並んでいました。神田川を開墾し、神田山から江戸城への攻撃能力を低下させてもなお、この一帯の軍事的重要性が高かったことを物語っています。